Thursday 19 January 2012

2つの政府?(1) 歴史的背景


英国議会(左)とスコットランド議会(右)
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イギリスはひとつの国として存在するのに、なぜスコットランドに政府があるのでしょうか? なぜ政府があるのに独立しないのか、またなぜ政府があるのに独立を求める声があがるのでしょうか?

日本語のイギリスにあたる英語は存在しません。「イギリス」と聞いて多くの日本人が想像するのはユニオンジャックの英国だと思いますが、英語ではそれは国名としてのUnited Kingdom (UK)あるいはGreat Britainとなり、日本語の「イギリス」にあたるものはありません。英語のUKはイングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドからなる国で、恐らく多くの人はイギリスあるいは英国という言葉でそれをあらわすでしょう。

United Kingdom=イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランド
=連合王国≒英国orイギリス

ということですね(Wikipediaのイギリスの国名の欄が言葉の由来について比較的詳しく書いています)。このブログはスコットランドの独立について解説するので、以下では連合王国とスコットランドの歴史的関係について説明します。

・1603年の同君連合

イングランドとスコットランドは歴史的に別々の国で、国王、議会、宗教、法律などもそれぞれ異なっていました。中世にスコットランドはイングランドの支配下におかれますが、別のエントリで述べた13世紀末~14世紀初頭の独立戦争(メル・ギブソン主演の映画『ブレイブ・ハート』はそのハリウッド的解釈です)により、1320年にイングランド支配を脱しました。その後スコットランドは独立した王国としての立場を維持しますが、イングランドからたびたび侵略を受けます。16世紀にはイングランド国王ヘンリ8世がスコットランドを支配下に置こうと積極的な軍事・外交政策をとりますが、スコットランドはこれを退けました。

ところが1603年にイングランド王エリザベス1世が死去すると状況が一変します。エリザベス1世は子供がいなかったため、イングランドは後継者を探さなければならなかったのですが、それがたまたま、スコットランド国王であったジェイムズ6世だったわけです。イングランド議会はジェイムズ6世にイングランドの国王として即位することを要請し、ジェイムズ6世はこれを引き受け、イングランド国王ジェイムズ1世となりました。こうしてスコットランドはイングランドと国王ジェイムズを共有することになるのですが、それ以外はお互い別の国のまま、つまり国王だけ同じで、議会、宗教、法律は別々のままというよくわからない関係に入ることになりました。

ジェイムズ6世・1世

この状況は21世紀の私たちから見ればおかしいですが、当時は国は国王の持ち物と言う認識があったので、国王が死んだ場合には誰かがそれを相続し、その相続する人物がたまたま他の国も所有していたと言う状況は珍しくありませんでした。さらにこの時代は、宗教改革後でカトリックとプロテスタントが激しく争っていたため、後継者選びにも宗教対立が色濃く反映されていました。また医学が発展していなかったため、乳幼児死亡率が高く、国王が死んだ場合に次の後継者が遠く離れた家系にしか見つからない場合も多々ありました(世界史で学ぶハプスブルク家はこの時代に多くの国と地域を相続したわけですが、伝統的に多産で男子が多く生き残ったことも勢力拡大の要因の一つとされています)。こうした要因で、1603年にスコットランドとイングランドは国王を共有することになったのです。

・同君連合の難しさ

しかし国王ジェイムズにとって、両国を統治するのはなかなか面倒なことでした。長く続いた対立関係に加え、問題を難しくしたのは両国の宗教の違いです。両国はそれぞれプロテスタントですが宗派が異なり、イングランドはよりカトリックに近い主教主義、一方スコットランドはより厳格な長老主義を国教として採用していました。この違いは国王でもいかんともしがたく、ジェイムズの後継者も両国の宗教対立でたいへん苦労することになります。特にジェイムズの後を継いだチャールズ1世は、スコットランドでの宗教政策を誤ったため政治的混乱と反乱を引き起こし、ついには反乱軍に捕らえられて処刑されてしまいました。世界史で習うピューリタン革命のことですね。

17世紀の宗教対立は1688年の名誉革命でひとまず終結します。オランダから招聘されたオレンジ公ウィリアムはイングランド・スコットランド両国のプロテスタント国王として即位し、混乱に終止符が打たれました。ウィリアム3世の時代はヨーロッパでフランスをはじめとするカトリック勢力が強大になりプロテスタント陣営が劣勢に陥っていました。そのためウィリアムはイングランドとスコットランドをプロテスタント国としてひとつにまとめ、さらに国王として統治を容易にするため、両国の合同を提案しました。しかしウィリアムの提案は両国の政治家から反対にあい、実現することはありませんでした。

・1707年の合同

ウィリアムの死後即位したアン女王はウィリアムの遺志を継ぎ、両国の合同を提案しました。アン女王の時代にはヨーロッパ国際政治の状況の変化により、合同が政治家の間でより肯定的にとらえられたため、両国が合同に向けて本格的に動き出します。度重なる交渉の末、イングランドとスコットランドの議会は1706年に合同条約を取り交わしました。

合同条約は両国の力関係を反映してイングランド主導で進んだため、スコットランドの吸収合併=スコットランド議会の廃止が既定路線になりました。またスコットランドに対してはイングランドとの関税撤廃、イングランド植民地との貿易自由化、税制の統一など、主に経済面において好条件が提示されました。さらにスコットランドの宗教、法律、教育制度は保持するなど、議会の廃止以外は合同下のスコットランドは「半独立」とでもいうべき立場になりました。こうした条件のもと、両国議会は合同条約を批准し、1707年5月に合同が成立、スコットランドとイングランドが新しくKingdom of Great Britain=グレートブリテン王国、に生まれ変わりました。これが現在のUKの母体となります。

合同条約をスコットランド代表から受け取るアン女王
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制度的な変遷をまとめると、

1603年 イングランドとスコットランドが国王ジェイムズを共有=同君連合
     (両国は国王のみ共有)
1707年 イングランド議会がスコットランド議会を吸収合併=議会合同
     (スコットランドは法、宗教、教育等を維持→「半独立」)
     Kingdom of Great Britainが誕生
       →現在のUK(連合王国)の母体となる

となります。

歴史的背景は以上の通りなので、次回のエントリでは1707年の合同から1999年のスコットランド議会再開までの話をしましょう。

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