Tuesday 24 January 2012

2つの政府?(2) 連合王国と帝国


1707年にスコットランド議会はイングランド議会に吸収合併され、両国はKingdom of Great Britain、グレートブリテン王国として生まれ変わりました。しかしスコットランドの法、宗教、教育制度等はそのまま維持され、スコットランドは「半独立」とでも呼ぶべき状態になりました。1801年になるとグレートブリテン王国にアイルランド王国が加わりUnited Kingdom of Great Britain and Ireland、グレートブリテンおよびアイルランド連合王国が誕生します。その後1922年にはアイルランドがベルファストを含む北アイルランドを除いてアイルランド自由国として独立し、1927年には連合王国はUnited Kingdom of Great Britain and Northern Irelandとなります。

このように連合王国は20世紀初頭に大きく変貌するわけですが、スコットランドと連合王国の関係はと言うと、基本的には1707年の合同から全く変わらず、スコットランドは連合王国内で「半独立」の状態を維持し続けました。スコットランドは議員をロンドンの議会に送り、連合王国の植民地と貿易を展開するなど、政治的にも経済的にも連合王国の一部として機能し続け、ある面では、イングランドとスコットランドはひとつの国として統合を強めていったと言えるでしょう。

・連合王国と帝国

1707年の合同当時、スコットランドは国家財政の危機に瀕していました。海外進出や国内産業振興の失敗などの要因があるのですが、ここでは省きましょう。最近の研究では合同直前の1690年代の状況は特に厳しく、イングランドとの合同が想像しうる唯一の解決策であったと論じられています。実際、合同条約では、スコットランドとイングランドの植民地との自由貿易が確約されました。合同後の18世紀後半になると、期待されていた経済的効果が顕著になり、18世紀末から19世紀前半まで、スコットランドは急速な経済発展と産業化を果たしました。なかでもスコットランド第二の都市グラスゴウは、大西洋に面したその利点を生かし、18世紀には北米植民地との貿易で急速に発展し、また19世紀にはいわゆる産業革命の中心地のひとつとして、綿工業をはじめ製鉄、造船、鉄道などの産業で経済発展をリードしました。

またこうした経済的恩恵を受けるだけではなく、スコットランド人は行政や軍事面でも積極的に連合王国とイギリス帝国の発展に寄与しました。スコットランドは多くの人材を軍隊に送り込み、特に勇猛さで知られるスコットランドの高地地方、ハイランドと呼ばれる地域の出身者からなるハイランド連隊は、イギリスの軍隊でもひときわ優秀な部隊として名を馳せ、数多くの海外・植民地戦争で重要な役割を果たしたとされています。たとえば映画『シン・レッド・ライン』の原題はThin Red Line、直訳すると「薄い赤の線」ですが、この言葉は軍事用語で、横に広がって薄くなった防衛線のことを指します。この表現は、1854年のクリミア戦争でロシア軍と対峙したハイランド連隊の姿に由来します。数に勝るロシア軍騎馬隊の突撃を4列の陣をひいて受け止めたハイランド連隊の勇猛さは語り草となり、表現として定着したのです。軍事以外でも、イギリス帝国の先駆者となったスコットランド人は数多くいました。探検家として有名なリヴィングストンや、明治日本の近代化に大きな貢献をしたトマス・グラバーもスコットランド出身です。

ロシア軍騎馬隊と対峙するハイランド連隊
トマス・グラバーと長崎のグラバー邸
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このように合同後のスコットランド人は、連合王国の発展に寄与し、イギリス帝国の臣民としてその拡大に貢献しました。その過程で、スコットランド人でありまたイギリス人(British)でもあるという二重の自己意識を育てていったことでしょう。またスコットランド人は時宜に応じて、「半独立」の国民としての立場をうまく活用していきました。時には独自の法、宗教、歴史を持つ「半独立」の国民として、イギリス連合王国内でイングランドとは異なる政策を求め、また時には連合王国と帝国の臣民、イギリス人として、イングランドとの対等な政策を求めました。この二重の自己意識は、国と国民意識の単位が一致するとされている現代の日本ではなかなか理解しづらいかもしれません。

・帝国の解体とヨーロッパ共同体

このスコットランド人の二重の自己意識は、第二次大戦終了に伴うイギリス帝国の解体と、ヨーロッパ共同体の誕生により大きく変化します。大戦後のアジア・アフリカ植民地諸国の独立によって、イギリス帝国はコモンウェルスあるいは英連邦と呼ばれる、より緩やかなつながりに基づく政体に生まれ変わりました。イギリス人は帝国を失う一方、ヨーロッパでは国家の単位を超える経済・軍事連合の枠組みが生まれ、のちのEU形成への長い道のりが始まりました。

スコットランド人から見ると、この状況はある意味で、自分たちの国民としての自己意識に再検討を迫るようなものであったでしょう。スコットランドは連合王国の一部として帝国の拡大に寄与し、その様々な恩恵を受けてきました。ある意味においては、帝国あっての連合王国、だったわけです。この前提が、帝国の解体に伴い意味を失い、また連合王国はヨーロッパ共同体の誕生に伴いその存在意義を変えつつありました。スコットランド人の意識が徐々に変わり始めたのがこの1960年代でした。1967年にはSNPの議員がイギリス議会に選出され、スコットランド独立と権限委譲が本格的に議論されるようになりました。

SNPは1970年代に躍進を遂げ、1979年3月の権限移譲の国民投票にこぎつけるのですが、その話はまた次回にしましょう。

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